苔むす茄子石谷(星田連山)
秋の紅葉時期に星田連山を歩くのは初めてでした。この日は、JR星田駅から星田新池に向かい、茄子石谷(地獄谷)の谷道を歩くことにしました。茄子石谷(地獄谷)は、星田新池に水を運ぶ谷のひとつです。星田新池は、明治末から大正にかけて堤防が造られ、今も下流の農業用水として大切な役目を果たしています。堤防の土砂を採掘した旭山(旭の山)には、縄文時代の中期(約4千数百年前)の遺跡も発掘されていて、古代から人の営みがあった地とされています。現在の堰提は、昭和60年3月に補修が完了して、広場に改修記念碑が建てられました。宅地開発で古の風景を思い起こすこともできませんが、星田一帯は多くの歴史を刻んできたんですね。





茄子石谷(地獄谷)は、谷が深くて狭く、歩いていると一種異様な雰囲気になり、一刻も早く抜け出たい衝動に駆られたそうです。三途の川の光景が想像される地獄のようで、人のあまり立ち寄らない、村人に恐れられた場所として、昔から死牛馬等の捨て場所ともなっていたようだと言われています。谷には今も石組みで築かれた用水路が残され、星田新池が造られた明治から昭和初期に造られたもの思われています。茄子石谷(地獄谷)の滝下には、家ぐらいの大きな「なすび石」があったそうです。江戸時代の絵図には、真っ黒で大きな「なすび石」が描かれているそうですが、30個ばかりに砕かれて各家の庭石と化したらしく、今は無いとのことです。

星田新池ができる以前は、茄子石谷(地獄谷)は拂底谷からの流れと合流して傍示川へ注ぎ込んだため、大規模な水害につながっていたと言われています。この谷に残る水路と思われる構造物は、星田新池ができる以前の治水のために造られたものだと言われています。それとは別に昭和40年頃にこの地で修験者が修業を行っていたとの話もありますが定かではありません。


聖滝(茄子石の滝)から巻き道を上がると星田新池から続く尾根道と合流します。合流地点から道を外れ、その上の尾根に上がると広望丘です。ザレた急な坂なので滑らないように登るようにして下さい。


ピークは踏んでいたものの銘板を確認できていなかった「小判の嶺」へ向かうため、地獄谷山を通る尾根道を歩きました。

北山師岳から弁財天山へ歩く途中にある西茨尾山、茨尾山周辺は、廃小松寺への山門があった場所だとされています。廃小松寺は、星田の南端の小松の小松山にあった真言宗東寺派の七堂伽藍のお寺で、江戸時代元禄期に廃寺となりました。この山域の道の多くは、廃小松寺への参道だったものも多いと聞きます。
弁財天山から分岐を一旦暗部に下り、その後大谷山へ登り返します。

大谷山からは、南大谷山やむろいけ園地の遊歩道に分岐する道がいくつかあります。今回は、小判の嶺の銘板確認もあって、むろいけ園地の南側入り口に向かいました。冬場、春先と違い、道の一部が藪に覆われている箇所がありました。

ほしだ園地は、休日ということもあってかなりの人出で込み合っていました。コロナ禍で自粛が続く中、アウトドアなら大丈夫ということでしょうが、問題はそこで行動様式ですね。少し早かった星のブランコの紅葉風景を見た後、早々に園地を離れました。

ほしだ園地を後にして、飯盛霊園を通り飯盛中山へ向かいました。


飯盛中山からむろいけ園地を抜け、権現川ハイキングコース途中から河内飯盛山へ向かいました。紅葉には少し早かった里山ですが、今日も一日楽しませてもらいました。
