飯盛城と慈眼寺
大阪府大東市に移り住んで、今年で60年になります。当時は北河内郡という住居表示で家の周りは、一部の集落と田畑しかなく、やっと大阪府の衛星都市として電車の複線化と新興住宅地の開発が始まったばかりでした。そして目の前にそびえ立つ里山が河内飯盛山でした。生駒山地の北部に位置し、楠木正行の四條畷の合戦地として知られていました。幼稚園、小学校の遠足行事でも飯盛山山頂やむろいけ園地に登っていたことが記憶に残っています。
昨年からトレーニングにジョギングを取り入れていましたが、12月初旬に膝を怪我してから膝関節周辺の調子が思わしくなく、年明けからウォーキングに切り替えることにしました。ジョギングに利用していた公園ではなく、少しでも山道に慣れることを考え、飯盛山を歩くことにしました。自宅から山頂まで往復して約5~7km、時間にして1.5~2.0時間程度なので、日々の運動としてちょうど良い感じです。
登山道は一般的なハイキングコースと古道と呼ばれるあまり踏まれていない道があります。また、飯盛城初め歴史的な背景も多く、トレーニングで歩きながら史跡や神社仏閣、バリエーションルートを含め色々紹介していきたいと思っています。
飯盛城は、大阪平野の東縁部に位置する生駒山地の北部から、西北に派生する支脈である飯盛山山頂(標高314m)を含む馬の背状の尾根筋を中心に構築された戦国期の山城である。現代の行政区分では、大東市と四條畷市にまたがる山中ということになるが、西麓を走る東高野街道と、北麓の大和に至る清滝街道、南側の古堤街道(中垣内越)が交差する地点に近く、当時から交通至便な土地であった。さらに西麓には深野池が広がり、河内を網の目のように流れる大和川水運の結節点となる港にも至近で、大阪、堺、更には瀬戸内から四国、九州にもつながる交通の要衝であった。城の西側面は海抜数メートルの深野池から標高314メートルの飯盛山山頂まで、急峻な崖が立ち上がり、北麓を巡り、東側の谷を流れる権現川からの斜面も急で、唯一生駒山から尾根が連なる南側だけが緩やかで、攻めるに難く守るに易い城地であった。(大東市HP参照)
慈眼寺(じげんじ)は、大阪府大東市野崎にある曹洞宗の寺院で、山号は福聚山(ふくじゅさん)ですが、一般的には『野崎観音(のざきかんのん)』の通称で知られています。毎年5月初旬に行われる無縁経法要は、「野崎詣り」の通称で知られ、江戸時代から多くの人で賑うことで有名です。天平勝宝年間(749年~757年)にインドから来朝した婆羅門僧正が、行基に「野崎は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(サールナート)に似ている」と語り、それを受けた行基が、白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと伝えられ、本尊は長谷寺の本尊と同木から彫られたといわれています。(ウィキペディアHP参照)
花のない季節に美しい姿を見せてくれたコウヤボウキの綿毛