元山上と鳴川街道(生駒山)
千光寺のHPにある「千光寺の縁起」には、下記のような記述があります。
修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)が、西暦660年頃、生駒明神に参拝の折にご神託により鳴川の里に入り、小さな草堂を建て、将軍木(ウルシの木)で千手観音を刻んで安置し、その後、天武天皇が国家鎮護を願って伽藍を建立し、「千光寺」と名付け、寺領500石を下し賜われたとされています。後世の人々は、役小角が大峯山を開く以前に修行したところから、「元の山上(もとのさんじょう)」と呼ぶようになったとのことです。
そんな千光寺は、古くから大和と河内を結ぶ街道のひとつ「鳴川越え(鳴川街道)」の道中にあります。今回は、千光寺にある修験道の行場を歩きたくて近鉄元山上駅から歩いてきました。



「生駒山口神社」は、櫟原川に沿い千光寺への旧道に鎮座する式内大社で、現祭神は素戔嗚命と櫛稲田姫命とされています。『大和志』には今滝宮と称すとあり、近世には牛頭天王社と称し、元は西南の滝近くにあったといわれています。永享6年(1434)2月に焼失したので、同年1月に再建したと宝永2年(1705)の本殿棟札に記されているということです。

生駒山口神社から千光寺への道は、舗装された道や砂利道です。途中から櫟原川に沿うように道が続きます。
清滝石仏群(きよたきせきぶつぐん)
巨岩の壁には「八尺地蔵」と呼ばれる線刻の巨仏の他、多数の石仏が彫られている。地蔵尊は頭の部分が薄肉彫りで、銘文はないがその様式から鎌倉時代中頃の制作と考えられている。子授けの石仏として信仰されている「はらみ地蔵」や梵字による阿弥陀三尊仏、上下二段の四角い彫りこみに彫られた貝吹き地蔵の他、法螺吹き地蔵などが室町後期から江戸前期にかけて彫られている。また、対岸の巨岩にも行儀よく並んだ五尊仏が彫られている。また、横を流れる川には村に伝染病などが入らないようにと祈りを込めて、昔から「勧請縄」が掛けられ、今も毎年大晦日に掛け替えられている。(平群町観光ホームページより)

清滝渓谷は短い区間ですが、渓谷の美しさと磨崖仏がとても似合っていて癒される空間でした。



千光寺の縁起は、冒頭で記述しましたが、役小角の母・白専女は、小角が大峯山に行かれてからも鳴川の里に残り修行を続けられたとのことです。この伝えから、女人禁制の吉野大峯に対し女性の修行も受け入れたため、「女人山上」と呼ばれ、女人の修行道場として栄えたそうです。千光寺も昔の盛況さはないかもしれませんが、今なお修験道場として親しまれているようです。
この日の目的は、千光寺に昔からある裏行場を探索することでした。裏行場と言っても大したことはないだろうと高を括っていましたが、奥の宮直下の岩場にかけられた鎖場は、思いのほか険しく危険な場所でした。裏行場については、別途記事にまとめてみましたので、ご覧下さい。裏行場から巨岩を辿りながら鳴川街道に戻り、鳴川峠を目指しました。

鳴川越えの道は、千光寺手前の分岐を左に進み鐘掛岩などの行場近くを辿りますが、今回は裏行場を探索した結果、一部の区間を歩くことなく鳴川峠に向かうことになりました。道は幅広くよく踏まれ、古より多くの人の往来があったことが伺えました。
下の写真に写る分岐は、この道が古の道だと感じさせてくれる場所のひとつです。

分岐から少し歩き信貴生駒スカイラインをくぐると鳴川峠です。今回はここで鳴川越え(鳴川街道)の道から外れ、生駒縦走歩道でなるかわ園地へ向かいました。鳴川峠にも室町時代末期の造立と推定される首切地蔵があります。



