春を探しながら生駒を歩く
この日は、孫太尾根に続いて鈴鹿の山へ花を探索に行くつもりでした。ところが、前日の天気予報を見ると近畿地方が快晴なのに、三重県だけ「曇り一時雨」…何の嫌がらせだと思いながら、行き先変更を余儀なくされました。今年は寅年だということで、どこかのタイミングで朝護孫子寺に行こうと思っていたのを思い出し、桜の便りも聞こえ始めた生駒に春を探しながら歩くことにしました。

自宅から近鉄バスと電車を乗り継ぎ、信貴山下駅まで移動しました。信貴山下駅は、朝護孫子寺への参詣路線として敷設された、信貴生駒電気鉄道の山下駅として開業した駅です。信貴山に登る東信貴鋼索線(東信貴ケーブルカー)と同時の開業でしたが、その東信貴鋼索線は、1983年(昭和58年)9月1日 に廃線となりました。現在、信貴山下駅には、当時のケーブルカーの車両車軸と巻上機用コントローラー、そして「コ9形10車両」が展示されています。

廃線となった東信貴鋼索線(東信貴ケーブルカー)の線路跡地に「千本桜並木道」と称するハイキングコースが造られています。約700mの直線ルートで、桜などが植えられていますが、今回歩いたイメージでは、千本桜とのイメージはありませんでした。




千本桜並木道を通り抜けると信貴山朝護孫子寺までは、参道らしく旅館や料理屋などが立ち並んでいます。千体地蔵を過ぎると朝護孫子寺の仁王門に到着します。この日は、平日で人通りも少なかったですが、休日には多くの人が訪れるでしょうね。



朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)と虎との関係は、今から1400年もの昔、物部守屋討伐のための戦いが勃発しました。聖徳太子(厩戸王子)が出陣した時、空に毘沙門天王が現れたといわれています。討伐軍は物部軍に勝利し、厩戸王子自らが毘沙門天の尊像を作り、創建されたのが信貴山朝護孫子寺といわれています。そして毘沙門天が出現したのが寅年、寅日、寅刻だったそうです。


行者堂から空鉢護法堂(一願成就)へは、急勾配の道ですが、整備されていて安全に歩くことができます。


信貴山は、空鉢護法堂のある雄岳と雌岳二つのピークがあります。
今回は、雌岳にも登ってみました。雌岳の山頂部は、平坦な台形状でした。

空鉢護法堂(一願成就)は、命蓮上人が竜王の教えを蒙り、信貴山縁起絵巻(飛倉の巻)の如く、空鉢を飛ばして倉を飛び返らせ、驚き嘆く長者に慈悲の心を諭して福徳を授けたという出来事に由来します。山頂に竜王の祠を建てて以来、多くの参詣者から、「一願成就」の霊験あらたかな守護神として信仰されております。山道は険しいものの、途中に信貴城址と行者の篭堂、星祭り本尊があり、また、空鉢護法堂(空鉢堂)からの眺めはたいへん素晴らしいものです。(朝護孫子寺HPより参照)



信貴山城は、天文5年(1536年)に木沢長政により築城されました。標高437mの信貴山頂(雄岳)に位置する戦国期の典型的な山城で、信貴越えの道をおさえることにより、大和支配の拠点として機能しました。城郭の範囲は南北約700m、東西約550mにも及び、奈良県下で最大規模の山城です。天文11年(1542年)、木沢長政が太平寺の戦いで敗れ、城はいったん焼失しましたが、大和に入国した松永久秀が永禄2年(1559年)に改修し、大規模な城郭を築きました。(奈良県歴史文化資源データベースHPより参照)


高安城倉庫址は、昭和53年4月市民グループの「高安城を探る会」が、高安山頂から奈良側へ200mほど下ったところで発見。倉庫は3間×4間(柱間約210㎝)で20個の礎石があります。この発見によって高安城の文献の記載がはじめて確証されたとのことです。
尚、高安城は、『日本書紀』に、「大和国の高安城(たかやすのき)、讃岐国山田郡の屋嶋城、対馬国の金田城を築く」と、記載された古代山城ですが、明確な遺構は確認されておらず、いまだ詳細は不明なままです。

高安山に寄った後、生駒縦走歩道を北進しました。






なるかわ園地で、ミツマタの花を観賞した後、神津嶽のハイキングコースを辿って下山しました。
この日は、お天気も良く、道にはたくさんの花々が咲いていました。生駒山地は、植栽された草木が多く、これといって珍しい花が咲いている訳ではありませんが、春が駆け足で通り過ぎようとしている雰囲気を十分味わうことができた一日でした。
