旧跡と町石を辿り(小和道)
金剛山へ登る道は本当に多くあります。その大半を歩いたと思っていますが、なかなかそれぞれの道の特徴、歴史、伝説を感じながら歩くことまでできていませんでした。少しずつでも歩く地域のことを知りたくて、再び色々な登山道を辿ってみようと思っています。金剛山の東山麓(奈良側)は、役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚が数か所あり、葛城二十八宿経塚巡行で多くの修験者が歩く葛城修験道の聖地でもあります。今回歩いた小和道(北宇智道)には、経塚のひとつ【第二十番経塚】石寺跡(妙法蓮華経 常不軽菩薩品)があります。古から歩かれた道で、町石も残っていて、高宮廃寺跡もあり風情を感じながら歩くことができました。
本来、小和道(北宇智道)は、JR北宇智駅から辿ると登録有形文化財「藤岡家宅」や御霊神社などを辿り、古い道標や町石を見ることができます。今回は、天ヶ滝新道登山口から歩いたので、小和町の街並みを見ることはできませんでした。
天ヶ滝新道登山口までは、山麓線から小和町の狭い道を走ります。離合困難な個所も多いので運転には注意して下さい。登山口に駐車した後、地元の方と少しお話させていただいた後、小和道の取付きまで歩きました。
【いにしえの御所を尋ねて(改訂二版) 御所市教育委員会より】
高宮廃寺は西佐味の西方山中にあり、俗に高宮とよばれ、標高550メートルの金剛山の中腹の景勝地にあって、金堂跡と推定される所には20数個の礎石を残しており、他に塔跡とみられるところにも自然石を残している。昭和2年指定の国史跡。この高宮寺がいかなる寺であったかは不明であるが、行基菩薩伝に行基24才のとき高宮寺の徳光について戒を受けたとあり、『日本霊異記』にも「日本国大倭国葛上郡高止」の記事があり、現存の遺跡と合わせて高宮寺についてわずかに示唆するものといえる。
高宮廃寺跡から石寺跡、伏見道出合いまでの道は、ほとんどが植林地の中を通っています。高宮廃寺跡から石寺跡までは、道に転石が多く少し歩き辛く感じますが、危険な個所はなく問題なく歩くことができます。
石寺跡には大きな挙績が祀られていますが、天羽雷命(織物の神様)が猪石岡に降臨したという伝承をこの巨石がおっているようで、以前は注連縄が飾られていたということです。名前の由来は、本尊の薬師如来が石像だったことから石寺と呼んだようですが、明治初めの廃仏毀釈により堂塔伽藍は失われています。現在、この石寺跡は「葛城二十八宿経塚」のうち第二十番経塚となっています。尚、巨岩には、「丸に三つ引き」の家紋のような模様が彫られていました。家紋もしくは寺紋かもしれませんね。
石寺跡を少し探索した後、町石を探しながら欽名水を目指しました。道は主に開けた植林地の中を通っています。
金剛山の東側斜面にも欽名水、新欽名水など昔から旅人や登山者ののどを潤してくれる湧き水があります。高い山と違い、さほど保水力が多い山ではないので、水量は少なめですが、それでもホッとできる場所です。
欽名水から伏見道出合いまでは、植林地のやや急な斜面を登ります。
以下は、一の鳥居付近の町石などの様子です。
一の鳥居にある「法華経一字一石塔」は、五條市近内村(現在の藤岡家住宅)の庄屋・藤岡長兵衛が吉野川の治水を願い吉野川の石に凡事を掘り込んだとされています。小和道は、古くから交通の要であり、山岳信仰の要所であったことがよく分かります。