レースを纏った女王(二上山)
数年前に金剛山の麓で偶然見かけたキヌガサタケ。純白のドレスを纏ったかのような美しい姿から「キノコの女王」とも呼ばれています。今回は二上山で登山道の傍でキヌガサタケを見ることができるとの情報があったので、梅雨の合間を狙って行ってきました。
當麻山口神社の駐車場に車を停めさせていただき、祐泉寺から馬の背、雄岳、雌岳、岩屋峠と周回するルートで歩きました。高湿度の梅雨の合間で、短い距離ながら結構疲れました(笑)
駐車させていただいた當麻山口神社は、古くから近辺の16ヶ所の村(當麻、大橋、西中、勝根、今在家、染野、市場、岡崎、大中、有井、神楽、築山、大谷、池田、野口、鎌田)の鎮守産土神として広く崇敬、信仰されてきた旧指定郷社です。落ち着いた鎮守の森に佇む神社は、本当に地元の方々に愛されていることが分かります。


鳥谷口古墳(とりたにぐちこふん)は、奈良県指定史跡です。昭和58年(1983)の工事中に偶然発見され、この場所の小字名から、鳥谷口古墳と名付けられました。やや横長の四角形の古墳で、横口式石槨(よこぐちしきせっかく)と呼ばれる小さな石室です。
キヌガサタケは梅雨時期および秋に、特に竹林を好んで発生します。鳥谷口古墳 から祐泉寺へ向かう道の傍にある竹林の斜面に自生しています。普通に歩いていれば探す必要は無く、誰でも会うことはできます。ただ、成長がとても早く、朝に地中から出現して、その日の昼には萎んでしまうとも言われています。この日は、運よくドレスを纏った姿を見ることができました。
カサの内側から伸びたレース状の白い部分は地面まで達して、縁の部分は直線的な形状をしていることが多いです。柄は白色で表面を小孔が覆っており、真っ直ぐに伸び、中心は空洞になっています。幼菌の時は表面が白色~淡紫褐色のブヨブヨした直径4~6cmほどの卵形の袋に入っています。釣鐘型のカサには白色の環状の輪があり、そこに孔が開きます。表面はやや細かい網目状で、暗緑色のグレバ(胞子を形成する部分)で覆われています。そのグレバは悪臭を放ち、臭いで呼び寄せられたハエなどに胞子を運んでもらうという役目を持ちます。ご存じの方も多いと思いますが、このキヌガサタケは、高級食材としてもよく知られています。
【裏向不動明王】
役の行者が三十二歳の時に二上山に入り、現在、祐泉寺《ゆうせんじ》のある二本松の地に草案を結び、不動の滝で難行苦行の末、ついに大日如来を感得し、密印真言を授けられて神力自在の身となられた。それでみずから不動明王の像を石に刻み、滝のほとりに安置して滝の不動と称した。ところが、この不動尊の御霊力があまりに烈しく、人はその前を通ることができないで倒れ、あるいは転げ落ちるので、像を他に埋めて裏向きにしたので、いつの間にか裏向不動明王と呼ばれるようになった。今は、この近くに祐泉上人が永延二年に開いた祐泉寺がある。 (出典: 当麻村誌)




祐泉寺は、二上山の麓にある天台宗の寺院です。落葉広葉樹の森に佇む静かな場所で、新緑時期や紅葉時期はとても綺麗です。

祐泉寺から馬の背までのルートは、よく踏まれた沢沿いの道です。危険な個所もなく前半はせせらぎに沿ってなだらかに登っていきます。水場やベンチを過ぎる頃から登り傾斜がきつくなってきます。

キヌガサタケという目的を早々とクリアしたので、馬の背からのんびりと雄岳の山頂を目指しました。

雄岳の山頂部には、葛木二上神社、二上白玉稲荷大神、葛城経塚二十八宿 第二十六番経塚『二上山』があります。二上山には石器の素材となる讃岐岩(サヌカイト)の層があり、古くから周辺に人が住んでいたものとみられ、昔から山頂にも人の往来が多かったと思われています。
天武天皇(てんむてんのう)の第3皇子に生まれた大津皇子ですが、あまりに勇敢で聡明な資質のために24歳で謀反の罪をきせられ、死罪になりました。宮内庁はその大津皇子(おおつのみこ)のお墓として、山頂近くにある円墳を『二上山墓(ふたかみやまのはか)』として管理しています。
梅雨の合間に急ぎ登ったこともあり、高湿度に体も疲れていたのでそそくさと雌岳へ下りました(笑)平日でお天気も微妙だったので人気の二上山も人出は少なめで、静かな山歩きができました。雌岳の山頂でも、ベンチでゆっくりした時間の流れを満喫しました。

花の百名山もササユリが終わり花も少し少なくなりました。この日は、色々なアジサイが彩りを添えてくれていました。

岩屋(いわや)は、二上山の麓にある石窟寺院跡で、「二上山廃寺跡」とも呼ばれています。寺域には大小2つの石窟が残されています。大きい石窟は間口7メートル・奥行4メートル・高さ6メートルで、石窟北壁の上部には坐像中尊・立像両脇侍の三体像の浮彫が確認されています。小さい石窟は間口1メートル・奥行2.5メートル・高さ約1メートルで、こちらにも石仏が確認されます。そのほか、地山を彫り残した三重層塔と思われる石塔が建っています。周辺から須恵器・土師器・万年通宝が出土していて、奈良時代の寺院跡と推定する説と平安時代の9世紀前半頃の創建とする説があるそうです。寺域は1948年(昭和23年)に国の史跡に指定されています。
