権現の滝/里山の信仰と古道
暖冬の影響で雪山へのテンションも揚がらず、悶々とした日が続いていましたが、こんな状況だからこそ里山の河内飯盛山や生駒山の歴史やバリエーションルート(古道)を探索してみようと足を運んでいます。特に家から毎日見ている河内飯盛山は里山なのに歴史や古道を深く知りません。今年は時間を割いて里山のことをもっと知ろうと思っています。
式内社 河内國讃良郡 御机神社
御祭神は素盞嗚尊。
当社は延喜式神名帳(905~927年)に載る古社で、起源は、奈良朝時代に鎮座されていたものと推察される。永禄3年(1560)、三好長慶が飯盛山に居城した頃には飯盛城鎮護の神として崇敬も厚かった。御机神社古案内文には、「…古くは現在地の東方字宮地に有ったが、文禄年間(1592~1596)に字城の堂山に移し更に元禄13年(1700年)この地に移転したものである」と記されている。現在の社殿は明治14年に建てかえられたものである。(御机神社 由緒より)
起雲山 龍尾寺
龍尾寺は、今からおよそ1300年前の奈良時代中期に、行基菩薩によって建立されたのが、創始であると伝えられています。元々は真言宗に属する寺院だったそうですが、その後戦国時代に飯盛城主三好長慶の菩提寺となり、曹洞宗に転じたということです。聖観世音菩薩を本尊としており、現在の本堂は、平成8年(1996年)に建て替えられたのだそうです。
(龍尾寺の伝説)
奈良時代の有名なお坊さまに行基という方がいらっしゃいます。諸国を巡って稲作のための溜池をつくったことで知られる高僧です。ある夏のこと。当地では日照りが続き、村をあげて雨乞いしても一塊の雲も呼ぶことができませんでした。そこへ通りがかった行基は里人を救おうと立ち上がり、「雨降らせたまえ」とお経を唱えながら一心不乱に龍王に祈りました。そうしたらあら不思議、一天にわかにかき曇り、たちまち大粒の雨が大地に降りそそぎ始めたのです。恵みの雨があがって山のかなたを見晴らした里人は、頭と胴と尾の三つにちぎれて木にかかっている龍を見いだしたのでした。龍はわが身を裂いてまで民衆の苦しみを救ったのでしょうか。人々は龍の頭の落ちたところに龍光寺、胴体のところに龍間寺、尾のところに龍尾寺を建て、龍王の霊を弔いました。大東市の龍間にある龍光寺と龍間寺、当市の権現滝・室池への入口、標高70メートルのところにある起雲山龍尾寺は、こんないわれを持つ古いお寺です。
今回は御机神社と龍尾寺を探索した後、蟹ヶ坂コースでむろいけ園地へ向かい、ネイチャートレイル外回りで権現の滝コースに下りて権現の滝を訪問。その後、滝谷楠水の場から楠公寺、八大龍王・白龍大明神に寄り飯盛山山頂へ。下りは古道のひとつ地獄谷コース(北条小コース)を通ってみました。
奈良時代、この地は日照り続きで雨乞いをしても雨が降りませんでした。そこへ通りかかった行基が村を助けようと滝壺に座って祈願をしたところ、龍が姿を現して大粒の雨が村に降り注いだと言い伝えられています。龍尾寺の伝説とも通ずる場所として、権現の滝が今も修業の場として存在しています。(第三日曜日が護摩焚きの日)
下山に利用した地獄谷古道(谷道)は、虎口近くから北条小学校へ下る古道のひとつです。地獄谷を通る道としては、竹林コースから中尾根に向かう道から地獄谷へ下る道もあります。利用される方が少なく夏場は草木が茂り歩き難くなりますが、谷には落差のある滝(水量は少ない)もあり雰囲気のある良い道だと思います。
蛇足になりますが、自宅近くにある小楠公御墓所(しょうなんこうごぼしょ)は、楠木正行の墓所です。墓所のある場所は、楠木正行が1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)、四條畷の戦いで戦死した場所とされています。