小楠公が眠る地(四條畷神社)
近年、三好長慶の居城として飯盛城が取り上げられていますが、私にとっては、四條畷は南北朝時代の楠木正行ゆかりの地の方が印象深く残っています。
野崎観音(慈眼寺)同様、日々歩くウオーキングルートにあり、親しみのある神社です。写真を撮影した日も、自宅から野崎観音へ向かい、南尾根コースで山頂を目指し、旧登山道で四條畷神社へ下山しました。

河内飯盛山の千畳敷廓跡に設置されているどんぐりアート…ネイチャークラフト作家『山のくじら』さんが野外アトリエとして展示されています。以前にもご紹介しましたが、センスの良いどんぐりを使った作品が展示され、登山者を迎えてくれています。
山頂は駆け足で通り過ぎましたが、曇りがちで視界はイマイチでしたが大阪市街地がきれいに見えていました。

この日は、旧登山道で四條畷神社へ下りました。
四條畷神社は、南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神としている神社です。父の楠木正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して、嫡男の楠木正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれるています。また、建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社である建武中興十五社(けんむちゅうこうじゅうごしゃ)のひとつです。後醍醐天皇による建武の中興は、それまでの武家中心の社会を天皇中心の社会に戻そうとしたものでした。河内飯盛山山頂にある飯盛城址には、楠木正行の銅像も建てられています。




御妣神社(みおやじんじゃ)の 御祭神は、楠木正成の夫人であり、楠木正行の母親である南江久子です。久子を慕う地元の婦人たちの要望で大正13年に摂社として奉祀することを申請され、大正14年に創建されました。この地に南北朝時代の母と子が並んで祀られることになりました。
中学時代に境内で行われた四條畷市と大東市共催の剣道大会で優勝した思い出、孫ができ拝殿で七五三の祈祷を受けた思い出、毎年訪れる初詣、そして近年はトレーニングで毎週幾度も足を運ぶ地となっています。




狛犬(こまいぬ)とは、獅子や犬に似た日本の獣で、想像上の生物とされる。像として神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う形、または守るべき寺社に背を向け、参拝者と正対する形で置かれる事が多く、またその際には無角の獅子と有角の狛犬とが一対とされる。飛鳥時代に日本に伝わった当初は獅子で、左右の姿に差異はなかったが、平安時代になってそれぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像が対で置かれるようになり、狭義には後者のみを「狛犬」と称すが、現在では両者を併せて狛犬と呼ぶのが一般化している。(中略)一般的に、獅子・狛犬は向かって右側の獅子像が「阿形(あぎょう)」で口を開いており、左側の狛犬像が「吽形(うんぎょう)」で口を閉じ、古くは角を持っていた。鎌倉時代後期以降になると様式が簡略化されたものが出現しはじめ、昭和時代以降に作られた物は左右ともに角が無い物が多く、口の開き方以外に外見上の差異がなくなっている。これらは本来「獅子」と呼ぶべきものであるが、今日では両方の像を合わせて「狛犬」と称することが多い。(Wikipediaを参照)
四條畷駅や駅前の商店街と神社を結ぶ参道の入り口にあった高さ約7mの石でつくられた「一の鳥居」が、2018年6月に発生した大阪北部地震で破損し、倒壊する恐れがあるとして取り壊されました。地元の方々が寄付を募り再建を計画されています。


小楠公御墓所は、南北朝時代の南朝の将、楠木正行の墓所です。墓所のある場所は、楠木正行が1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)、四條畷の戦いで戦死した地とされています。正行の父楠木正成が明治政府によって「大楠公(だいなんこう)」として神格化されたのに伴い、遺志を継ぎ命を落とした嫡男・正行も「小楠公(しょうなんこう)」として崇められるようになり、「忠君愛国」の象徴のひとつとされました。





