鹿野苑に似た地に(野崎観音)
野崎観音は、福聚山慈眼寺といい禅宗のお寺です。今から1300年ほど前、天平勝宝年間(749〜757年)に大仏開眼のため来朝した婆羅門僧正が「野崎の地は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(ハラナ)によく似ている」と行基様に申されました。感動された行基様は、観音様のお姿(十一面観音)を彫みこの地に安置されましたのがこのお寺のはじまりです。幾多の戦乱のため荒れはて、1565年(永禄8年)三好・松永の兵によって全焼し、本尊の観音様だけが残りました。長い間、小さいお堂のままでおまつりしてありましたが、元和2年(1616年)青厳和尚がこのお寺を復興され、元禄宝永ごろにのざきまいりが盛んになると共に、お寺も栄え、現在に到っています。(のざき観音慈眼寺HPより参照)
JR片町線の隣駅になる野崎は、小学校(野崎)、中学校(寺川)と通った場所です。当時の思い出のひとつが、出店で賑わう「野崎参り」です。天和から元禄・宝永年間(1681年~1704年)にかけて、天満橋の八軒家船着場から 鯰江川や寝屋川をさかのぼり野崎観音(深野池)まで舟で上っていく「野崎参り」が盛んになったといわれています。また、東海林太郎の歌で知られる 「野崎小唄」も有名です。





野崎観音慈眼寺の十六羅漢像は、約300年ほど前の作と伝えられ、江戸時代の戯れ歌にも「のざきかんのん十六らかん、うちの親父は働かん」と唄い親しまれ、庶民の信仰を集めてきました。先住十九世一峰和尚の代に山崩れの被害に遭い羅漢堂を消失し一時的に仮安置されています。現在、羅漢堂再建のための寄付を募集しています。
野崎観音にある「南條神社」は、宝塔神社に対して北の宮さん、牛頭さんの呼称で親しまれ、野崎地区の氏神として厚く信仰されてきたそうです。明治五年から宝塔神社に一時合祀されていましたが、同十三年には、野崎村村社として復活し現在に至っています。北條村に対し南條村を称した江戸時代以前に南條(野崎)村の鎮守として牛頭天王社と呼ばれていたと思われます。

平安時代から鎌倉時代にかけて摂津国江口にいた遊女のことを『江口の君』と呼んでいたそうです。また、謡曲「江口」で西行法師と歌問答をしたとされる遊女の妙(たえ)のことをさしているそうです。婦人病にかかり悩んだ江口の君は、野崎観音に病気平癒の願を掛けたところ、病は平癒したそうで、深く感謝した江口の君は得度して光相比丘尼となり、野崎観音の本堂を再興したとされています。現在でも婦人病や子授けに悩む女性の守護神として本堂の横に『江口の君堂』があります。









野崎城は、慈眼寺(野崎観音)の裏山(標高114.4m)に築かれた城です。河内国守護畠山氏の内紛の際、畠山尚順が立てこもる野崎城を畠山義豊が攻めたという記述あるそうですが、歴史的な詳細は不明な点が多いとのことです。河内国の北半分の拠点であった若江城の支城として、守護代の遊佐氏の一族が守っていたようです。飯盛城の築城後には、飯盛城の出城となり、飯盛城の廃城と同時期に廃城されたと言われています。



河内飯盛山へ向かう南尾根コースへは、吊り橋、野崎城址から入ります。また、北条地区からせせらぎを経由して野崎城址下の分岐から入ることもできます。
