石切場跡を辿る(北条古道/河内飯盛山)
◎河内飯盛山
飯盛山(いいもりやま)は、大阪府大東市と四條畷市にまたがる北部生駒山地の山です。大阪府山岳連盟が2002年に発刊した「大阪50山(おおさか50せん)」では、『河内飯盛山』と表記されています。標高は314.3mで山頂部には飯盛城の曲輪跡や石垣跡が今も多く残っています。また、山頂部には南北朝時代の四條畷の戦いで戦死した楠木正行の銅像が建っており、戦国時代の三好長慶の居城としても有名です。河内飯盛山の詳細な情報に関しては、『河内飯盛山周辺登山道』をご覧ください。
◎北条古道(2020年8月15日、登り)
数回歩いている北条古道ですが、「雨乞記念碑」をまだ見つけることができていませんでした。今回は、その碑を探すことを一番の目的として散歩がてらに歩いてきました。起点となる大東市北条にある北條神社へ自宅から向かいました。
(以下、現地の案内板に記載)
祭神 誉田別命(品陀別命)・菅原道真公 。例祭 十月二十日・二十一日 。
祭神は京都北野神社の御神木で像(註1)を刻んだものであると、当社の古記録にある。
即ち時(註2)の天皇の御詔勅に「北野の神木で神像を作り、漂流地に祀るべし」とあったので数多くの神像を刻み加茂川に流された。 その一体が当村の西の津之辺の浜辺に流れ着いた。その所は森であったので以来その所を明神の森と呼び聖地であるとして、代々お祭りを欠かさなかった。しかし、この社は平地であるため度々洪水の災いにあった。そこで時代は不明であるが現在地に御遷座された。 明治に合祀された八幡宮は鎌倉時代に、京都男山八幡宮を当村北條の八幡山に勧請した。 戦国期の飯盛城時代この八幡宮は武芸上達の神として武運長久を祈願した。 その後江戸時代に四條村が二つに分れ八幡宮は久具領の産土神となった。 明治五年八幡宮、天満宮の二柱が合祀され、北條神社となった。 末社に「善女大龍王」の水神が境内に祀られる。(所在地 大東市大字北條二一九七。)












掘り込まれた道に沿って登ると矢穴の開いた切石が多く点在する場所に出合います。登ってきた道は、切り出した石を山麓に降ろすために広く掘り込まれたのかもしれません。色々な思いを巡らしながら山道を歩いていました。


この場所が大掛かりな石切場だったことは間違いないと思われます。山頂に向かって右側には猪谷(地獄谷)があり、滝が落ち、不動尊祠跡や催事が行われていた形跡のある空間が広がっています。また、この山域には、大阪城改修時の石垣に使用された石を切り出した採石場跡が多く発見されています。その流れが近代史まで引き継がれていたのかもしれません。
この石切場近くには、道から少し離れたところに「雨乞記念碑」が建てられています。石切場とこの石碑に因果関係があるのか不明です。ただ、北條神社の末社に「善女大龍王」の水神が祀られていることと関連があるかもしれません。


竹林の中には、石垣で整地された空間があり、コンクリート製の建屋跡や水槽跡、古い焚火跡がありました。歴史的には、大正、昭和の時代の設備のような感じですが、石切場含め詳細はネットで調べてもよくわかりません。ただ、近くの妙見谷には、昭和まで操業していた島吉採石場跡があるので、同じような施設があったのではないかと推測されます。また、この辺りから南側一帯は、北条東古墳群がある場所だということで、古代より人の生活の場だったようです。






