河内飯盛山/蟹ヶ坂コース
◎河内飯盛山
飯盛山(いいもりやま)は、大阪府大東市と四條畷市にまたがる北部生駒山地の山です。大阪府山岳連盟が2002年に発刊した「大阪50山(おおさか50せん)」では、『河内飯盛山』と表記されています。標高は314.3mで山頂部には飯盛城の曲輪跡や石垣跡が今も多く残っています。また、山頂部には南北朝時代の四條畷の戦いで戦死した楠木正行の銅像が建っており、戦国時代の三好長慶の居城としても有名です。河内飯盛山の詳細な情報に関しては、『河内飯盛山周辺登山道』をご覧ください。
◎蟹ヶ坂コース
蟹ヶ坂コースは、四條畷市南野からむろいけ園地へ登るハイキング道です。同じハイキングコースの権現川コースより距離は短く、舗装路の区間も多い安全な道です。権現川にそそぐ支流に沿う道で自然林が美しく、新緑の時期は清々しいウォーキングを楽しめます。
今回は、四條畷(南野)の神社仏閣、史跡を見ながらのんびり歩いてきました。



龍尾寺の伝説
奈良時代の有名なお坊さまに行基という方がいらっしゃいます。諸国を巡って稲作のための溜池をつくったことで知られる高僧です。ある夏のこと。当地では日照りが続き、村をあげて雨乞いしても一塊の雲も呼ぶことができませんでした。そこへ通りがかった行基は里人を救おうと立ち上がり、「雨降らせたまえ」とお経を唱えながら一心不乱に龍王に祈りました。そうしたらあら不思議、一天にわかにかき曇り、たちまち大粒の雨が大地に降りそそぎ始めたのです。恵みの雨があがって山のかなたを見晴らした里人は、頭と胴と尾の三つにちぎれて木にかかっている龍を見いだしたのでした。龍はわが身を裂いてまで民衆の苦しみを救ったのでしょうか。人々は龍の頭の落ちたところに龍光寺、胴体のところに龍間寺、尾のところに龍尾寺を建て、龍王の霊を弔いました。大東市の龍間にある龍光寺と龍間寺、当市の権現滝・室池への入口、標高70メートルのところにある起雲山龍尾寺は、こんないわれを持つ古いお寺です。
四条畷市史第四巻より抜粋
元禄二(1689)年に当地を旅行した貝原益軒(かいばらえきけん)は、「飯盛の東北、龍鼻山に観音有。里民はなはだ尊信す」と記し、龍尾寺住職慶道は寛文三(1663)年八月二十二日付記録で、「観音山の旧地は人煙遠く距るにより、現在地に移し、禅宗に転じた」と書きしるす。 御机神社と相対する懸崖上に建つ龍尾寺は、桜・紅葉の名所としても有名。縁起書の語る観音山旧地は、現在地より更に五百㍍程山系へと踏み分けた地を指すが、人煙遠く距るにより、江戸初期に現在地へ転じたもの。京都相楽郡加茂町の古刹、真言宗海住山寺の大般若波羅蜜多経六〇〇巻のうち、奥書を記す経巻の大半は、当地龍尾寺の経典を、寛治五・六・七年(1090年代)に書写したものである。「河内国讃良郡滝尾供養了。滝尾山持経。滝尾寺の本。書写願主滝尾寺範誉」等と記してあることから見ると、平安末期には「滝尾寺」を称し、大般若経六〇〇巻を持つ寺院として、寺運隆々たるものがあったものであろう。奈良期の寺院は人里の中に建てられるが、平安期ともなれば、修行道場として山岳寺院へ移行する。このことから、平安初期に遡る古寺院であることは確である。滝尾寺の滝が、本字の瀧→龍となって、龍尾寺を称するに至ったものであろう。瀧尾寺から龍尾寺へ転じた時に、龍王感応伝説が生まれる。1200年前の天平らの昔、旱魃あって里人大いに苦しむ。行基菩薩これを憐れんで山間に立ち、法華経を唱すれば大雨沛然たり。龍王は身を裂いて里民の窮状を救ったものであろう。身は三分されて天空より落下した。住民深く感謝し、頭の所に龍光寺、胴体の所に龍間寺、尾の所に龍尾寺を建てて、その霊を弔った。前二者は大東市龍間に、後者が当市の龍尾寺となって、法灯を現在に伝える。京都の古刹・真言宗海住山寺と密接な関係にあることより見て、高野山金剛峯寺に倣い、人煙遠く距った観音山に真言宗として建立され、滝尾寺を称し、鎌倉時代に起山寺龍尾寺へ名称は定着、江戸初期に現在地へ転じた時、禅宗の曹洞宗へ改まった。
まんが四條畷昔ばなし「権現滝」
四條畷市制施行20周年(2002年)の時に「まんが日本昔ばなし」のスタッフにより制作された「まんが四條畷昔ばなし」です。
龍尾寺に寄り道した後、いつも歩くウォーキング道を登ります。

















