曼珠沙華咲く古道(葛城古道)
ホームページの記事には記載していませんが、昨年も歩いた葛城の道(葛城古道)を歩いてきました。昨年は曼珠沙華(ヒガンバナ)の花期に歩くことができず、今年は是非、曼珠沙華が咲く時期に歩こうとタイミングを計っていました。お天気は曇りがちでしたが、狙い通り曼珠沙華は丁度見頃で、首を垂れ始めた稲穂と共に美しい田園風景を楽しむことができました。
近畿日本鉄道の「てくてくまっぷ」に道のりが紹介されています。今回もほぼその行程を辿ることにしました。御所駅近くの駐車場まで自家用車で行き、御所駅からバスで風の森まで向かい歩くことにしました。ただ、風の森バス停からは少し寄り道して、弥勒寺と百体観音に立ち寄りました。

風の森峠の南にある東佐味集落に建つ弥勒寺は、高野山真言宗のお寺で、山号は龍華山、開創は不詳です。ただ、境内の無縁仏の中に「石佛」阿弥陀如来を彫ったものがあり、永禄十年(1567年安土桃山時代)十一月二十四日と記されているものがあるそうです。

弥勒寺の南方250メートルの八斗山(峯山と呼ばれる)の北麓に真言宗の寺院「南禅寺」があったとされています。その峯山を巡り西国三十三番・秩父三十三番・坂東三十四番の礼所は、文化8年(1812年)の開創といわれ百体の石仏が安置されています。明治42年3月に改修され、その後大正7年再興、現在に至っているそうです。石仏は赤レンガ造りの覆屋に一体ずつ安置されています。

弥勒寺と峯山百体観音を訪問した後、曼珠沙華と稲穂の田園風景、金剛山の美しい稜線を見ながら風の森峠に向かいました。
風の森峠の頂上に位置する「風の森神社(志那都彦神社)」は、高鴨神社と一対になっていると言われる小さな神社です。この地は日本の水稲栽培発祥の地と言われており、風の神「志那都比古神」は、五穀豊穣、風水害から守る農業神として祀られています。

高鴨神社は、鴨氏一族の発祥の地でその氏神として祀られたものだとされています。鴨氏はこの丘陵から奈良盆地に出て、葛城川の岸辺に移った一族が鴨都波神社を、東持田に移った一族が葛木御歳神社を祀ったと言われ、後に高鴨神社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになったそうです。(公式HP)


御所市の伏見地区は、歴史的には古く由緒あり、第十五代応神・第十六代仁徳天皇(300年後半から400年初)の頃、金剛葛城山東麓は最大の氏族であった葛城氏の本拠地として栄えた所だそうです。伏見八幡神社は旧村社で、由緒ある古社と思われますが、開創は不詳です。一番古い棟札は天正4年(1576年)とあり、度重なる修復の跡が見られますが、本殿、摂社は安土桃山時代の建築様式だと思われるようです。


菩提寺は、奈良時代聖武天皇の頃の名僧、大僧正行基菩薩が留止された所に建てられた道場「菩提院」のあとだそうです。その後も勅願所や修験道の道場として栄えていたようですが、明治の始め、廃仏のために衰え、次第に荒廃し、戦後はわずかに本堂と仁王門を残すのみとなっています。金剛山に登る際、高天彦神社とともに菩提寺に訪れることがありますが、私はここの仁王像が大好きです。


高天寺の小僧が若死した時、その師が嘆いていたら梅の木に鶯がきて「初春のあした毎には来れども、あはでぞかへるもとのすみかに」と鳴いたことが名前の由来とされる鶯宿梅ですが、朽ちてしまい今は切り株となってしまいました。

「土蜘蛛」とは日本の先住の人であると言われ、「土蜘蛛」が住んでいたという場所が「蜘蛛窟」です。また、土蜘蛛を埋めたとされる場所を「土蜘蛛塚」と言っています。高天地区には、千本の足を持つ土蜘蛛がいて、時の天皇の悩みの種であったので、勅使が矢で射殺したという伝説があります。「蜘蛛塚」は、日本全国に残されていますが、「蜘蛛窟」はここ高天にしか残されていないそうです。
高天彦神社は、葛城氏の最高神の高皇産霊神、市杵島姫命、菅原道真を祀っています。神社の形体は古く、ご神体は山(神社背後の白雲峰)であるので本殿はありません。高天の広大な大地は、天孫降臨神話の舞台となったところではないかと言い伝えられています。





【高野山真言宗 高天寺 橋本院 縁起集より】
養老2年(718年)高天山登拝の為この地を訪れた行基菩薩が霊地であることを感じ一精舎を建て一心に冥応し祈った。
或る日の事、念想中に容体より光を放ち香気漂う十一面観音菩薩のお姿が現われこの霊応に深く感じさらに修業を続け、困難と苦悩に屈することなく祈念し続けた。人々は、この姿に高天上人と呼び尊敬した。
元正天皇(715から724年)はこの功徳を仰いで、又高天の霊地たるを知り、寺地として与え、十一面観音菩薩を刻むことを許された(開基)。以来参拝する人々が後を絶たぬ程盛大かつ繁栄を極めた。又天平17年(745年)には聖武天皇(724から749年)発病の折病気平癒祈願をし、天皇より「宝宥山」の山号をいただくことになる。
鑑真和上(735年来日)を住職に任命されるなど、孝謙天皇(749から758年)も深く帰依され高天千軒と呼ばれ格式の高い大寺院で金剛転法輪寺七坊の一つとして石寺、朝原寺などと共に権威を誇った寺であった。又、葛城修験宗の根本道場として役の小角(634から701年)の修業した寺でもあった。
しかし、元弘の変(1331年)以後、南朝についた高天寺の修験僧高天行秀らが陰から援助していた事から北朝方の畠山基国(1333年)高師直(1348年)らにことごとく焼き打ちされ、延宝5年(1677年)住職頼勇の手により高天寺の一子院橋本院として復興なる迄350年余衰亡の一途をたどっていた。
橋本院から極楽寺へは、山道を歩くことになります。よく踏まれた道で大きな危険個所はありません。

一和僧都(いちわぞうず)が金剛山の東麓で毎夜光を放っているのを見て確認に行かれ、光を放っていた場所から仏頭(阿弥陀仏の頭)を発見されました。その仏頭は生身の仏様のようだったそうです。その仏頭を御本尊として、天歴五年(951)、草庵を結び法眼院と名付けられました。一和僧都は極楽の相を感見し、正暦五年(993)大往生されたそうで、その縁起から「仏頭山法眼院 吐田極楽寺」と言われているそうです。当寺のHPはこちらです。

御所市南郷地区にある「住吉神社」

住吉神社の道向かいにある「鶏足寺」…約1300年前、この地に4本足の鶏がおり、そのうわさを聞いた都の臣が役小角を差し向けたところ、この霊場に相応しい仏鳥としてここに小堂を建てたのがはじまりだと説明文が張られています。

御所市佐田の「春日神社」
御所市井戸の「高木神社」
御所市の名柄地区周辺は、東西に通る水越街道と南北に通る名柄街道が交わる地点に宿場町が開け、江戸時代初期には代官屋敷として建てられた中村家住宅をはじめ、100軒程度の集落となり、徐々に賑わいのある町並みになったそうです。南北に延びる名柄街道に連なる名柄地区には、切妻屋根の平入り建物を中心とした、古の面影を色濃く残す町家が点在し、当時の雰囲気を感じながらの町歩きを楽しむことができます。
長柄神社の創建年代は不明ですが、建築様式から1450年頃と言われています。『日本書紀』天武天皇9年9月9日条に「朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を長柄杜に看す。乃馬的射させたまふ」とあり、天武天皇が長柄神社にて流鏑馬をご覧になったことが記されているそうです。
「浄土宗 大張山 浅原院 龍正寺」…本尊は「木造 阿弥陀如来座像」で国指定の重要文化財です。



本社に鎮まります一言主大神は、第二十一代雄略天皇(幼武尊)が葛城山に狩をされた時に、顕現されました。
一言主大神は天皇と同じ姿で葛城山に顕現され、雄略天皇はそれが大神であることを知り、大御刀・弓矢・百官どもの衣服を奉献したと伝えられています。天皇はこの一言主大神を深く崇敬され、大いに御神徳を得られたのであります。この大神が顕現された「神降(かみたち)」と伝える地に、一言主大神と幼武尊(雄略天皇)をお祀りするのが当神社であります。そして、『古事記』が伝えるところによると、一言主大神は自ら「吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」と、その神としての神力をお示しになられております。そのためか、この神様を「一言(いちごん)さん」という親愛の情を込めた呼び方でお呼び申し、一言の願いであれば何ごとでもお聴き下さる神様として、里びとはもちろんのこと、古く全国各地からの信仰を集めております。
当社は全国各地の一言主神を奉斎する神社の総本社であり、全国各地には当社に参拝するための講があり、現代にも篤い信仰を集めています。
【葛城一言主神社パンフレット「いちごんさん」より】

綏靖天皇の皇居である葛城高丘宮の遺跡だと言われています。また、この辺りは葛城襲津彦の子にして第十六代仁徳天皇の皇后である磐之姫の古郷でもあり、古代の天皇家と深い関わりがあったのではないかと言われています。

九品寺を開いたのは奈良時代の行基です。九品寺はサンスクリット語で、その意味は布教でいう上品・中品・下品で、人間の品格をあらわしています。全部で九つの品があるので九品と名づけられています。その九品寺のご本尊は木造阿弥陀如来像で、国の重要文化財に指定されています。
九品寺を代表するのが千体地蔵です。正確には1800体ほどあるそうです。約200年ほど前に境内の竹やぶ開墾の時に、土中から出現されたものを現在の位置に並べれられてもので、寺伝によると南北朝の頃、楠木正成公に味方して参戦した楢原氏の兵士が自分の身代わりとして奉納されたと伝えれられます。発掘したらまだまだ出現すると言われています。


駒形大重神社は、10世紀初頭に醍醐天皇の勅命により、藤原時平が編纂した『延喜式』神名帳に記載された神社です。かつて駒形神社と大重神社は、別々に祀られていましたが、明治40年に合祀されて現在に至っています。祭神は「葛城稚犬養連網田」で、645年大化の改新の時、中大兄皇子から入鹿を暗殺せよと命じられた刺客と言われています。
この地域は古代から中世にかけて、兄川の出水等により、度々災害が発生し、伝承によれば、六地蔵が彫られた大きな石も、室町時代に土石流が発生し、現在の場所に流れ着いたと言われています。村人の強い信仰心から大きな石に刻んだものと考えられ、向かって右から天上道(日光菩薩)人間道(除蓋障菩薩)修羅道(持地菩薩)畜生道(宝印菩薩)餓鬼道(宝珠菩薩)地獄道(壇蛇菩薩)となっています。

鴨山口神社の御祭神・大山祇神は、山の神とされています。これは葛城山の入り口に鎮座し当時の住民が重要な作物である稲作造りに必要な雨・風を神に願う気持ちが山の入口にそれを治める神として奉られたものと思われます。

崇道神社
車道から奥まったところにある崇道神社は、早良親王(崇道天皇)を主祭神とする神社で、奈良から西日本を中心に各地に点在している神社のひとつです。奈良には、崇道天皇神社として他にも5箇所ほどあるようです。
鴨都波神社は、崇神天皇のころの大豪族鴨氏の氏神社で、高鴨神社と同様、全国的に分布する鴨社の源流の一つにあげられています。高鴨神社の上鴨社に対して、下鴨社と呼ばれていました。中鴨社は御歳神社です。創建は、飛鳥時代よりもさらに古い第10代崇神天皇の時代で、奈良県桜井市に御鎮座されている「大神神社」の別宮とも称されています。(公式HP)

