高天原伝承の地
天照大神をはじめ多くの神々が住んでいた天上の世界とされる「高天原(たかまがはら)」の伝承地とされる場所が、御所市の金剛山麓にあります。その地には、名神大社の高天彦神社があり、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)が祀られています。神社の背後には、御神体山である白雲峯(694m)がそびえ、社殿ができる以前は、この御神体山に御祭神を祀っていたと言われています。神社の参道は、高天の集落に通じており、周辺にひろがる広大な台地が高天原の伝承地とされています。高天原の所在地については諸説あるようで、宮崎県高千穂町や岡山県真庭市など全国に多くの伝承地が伝えられていますが、江戸時代初頭までは大和国葛城が高天原だと考えられていたようです。
◎高天彦神社前の鶯宿梅(おうしゅくばい)
奈良時代、鑑真和上が高天寺の住職だった時に弟子(小僧)が亡くなり悲しんでいたところ、この梅の木にとまった1羽の鶯が「初春の朝毎にやって来るけど、今回はあの小僧さんに会わずにもとの住み処に帰ります」と鳴いて慰めたことからこの木を鶯宿梅(おうしゅくばい)と呼ぶようになったと伝えられています。




◎高天彦神社(たかまひこじんじゃ)
古代豪族、葛城氏の最高神で、記・紀神話の中で、出雲へ国譲りのための使者を命令した高皇産霊神を祀っています。
ほかに市杵島姫命(福岡県宗像郡宗像神社三宮に祀られています女神の一人)・菅原道真を祀っています。神社の形体は古く、桜井市の大三輪神社と同様にご神体は山(神社背後の白雲峰)であるので、本殿はありません。高天の広大な大地は、記紀に登場する天孫降臨神話の舞台となったところではないかと言い伝えられています。(御所市観光ガイドのHPを参照)

高天彦神社をお参りした後、高天寺橋本院へ足を延ばしてみました。




◎高天寺橋本院
当寺院の歴史はたいへん古く、山号や名前の由来など以下の縁起が伝わっております。養老2年(718年)高天山登拝のためにこの地を訪れた行基菩薩が霊地であることを感じ一精舎をたて一心に冥応し祈った。
ある日のこと、念想中に容体より光を放ち香気漂う十一面観音菩薩のお姿が現れこの霊応に深く感じさらに修行を続け、困難と 苦悩に屈することなく祈念し続けた。人々はこの姿に高天上人と呼び尊敬した。元正天皇(715~724年)はこの功徳を仰いで、また高天の霊地たるを知り、寺地として与え、十一面観音菩薩を刻むことを許された(開基)。以来、参拝する人々が絶えぬほど盛大かつ繁栄を極めた。天平17年(745年)には聖武天皇(724~749年)発病の折、病気平癒祈願をし、天皇より「宝有山」の山号をいただくこととなる。鑑真和上(753年来日)を住職に任命されるなど、孝謙天皇(749~758年)も深く帰依され高天千軒と呼ばれる格式の高い大寺院で金剛転法輪寺七坊の一つとして石寺、朝原寺などと共に権威を誇った寺であった。又、葛城修験宗の根本道場として役の小角(634~701)の修行した寺でもあった。
しかし、元弘の変(1331年)以後、南朝についた高天寺の修験僧 高天行秀らが陰から援助していた事から北朝方の畠山基国(1333年)や高師直(こうのもろなお)らにことごとく焼き打ちされ、延宝5年(1677年)住職頼勇の手により高天寺の一子院橋本院として復興なるまで350年余り衰亡の一途をたどっていた。(高天寺橋本院のHPを参照)

高天原伝承の地に建つ高天彦神社、高天寺橋本院を山の帰りに散策してきましたが、歴史的な背景が興味深いこの地をゆっくり歩いてみたくなりました。稲作発祥の地とされている風の森をから北へ高鴨神社、高天彦神社、高天寺橋本院、極楽寺、江戸時代に建てられた代官屋敷である中村家住宅、一言主神社、行基が開山した九品寺を経て、現在の近鉄御所駅付近まで続いている「葛城古道」にも興味をそそられます。
