里の山城を巡る(飯盛城)
飯盛城(いいもりじょう)は、河内国讃良郡の河内飯盛山(現大阪府大東市および四條畷市)にある日本の城跡です。標高314.3mに築かれた山城で、2017年(平成29年)4月6日に「続日本100名城」(160番)に選定されました。別名「飯盛山城」とも呼ばれています。中世の山城としては、かなり大きな部類に属し、強固な要塞であった。全盛期には、南北に1200m、東西に500mに達し、70以上の曲輪が確認されている。築城には諸説があるようですが、南北朝時代の出城的な役割から戦国時代の天文年間に畠山義堯が河内を支配するようになり、家臣の木沢長政に命じて飯盛山に城郭を構えたことで居城としての要素が整ったと言われています。
月に幾度と登る河内飯盛山ですが、ほとんどがカメラも持たず、トレーニングとして歩いています。今回は、飯盛城に纏わる史跡や周辺の施設などを少しカメラに収めてきました。いつものように野崎側から絵日傘コースで山頂や山頂周辺を歩きました。
絵日傘コース、竹林コースの手前にある「妙成寺(教会)」は、歩いていると気になる建屋ですが、現在は廃屋状態です。沢には小滝がかかっていて宗教的行事があったことを伺うことができます。ただ、情報もなく歴史的に貴重なものではなさそうです(私見)。
ここからは絵日傘コースにある石碑などをご紹介します。









絵日傘峠から杉むら峠を経て歩くと、飯盛城の野崎側正面開口にあたる虎口(こぐち)に出合います。ここから北側稜線を中心に飯盛城の主要な史跡が残されています。虎口は出入口であると同時に、城攻めの際には寄せ手が肉薄する攻防の要所となるため厳重に防御されていたと思われます。飯盛城でも畝状堅堀、南丸とともに侵入を阻む要所であったと思われます。

虎口を上がると本丸千畳敷郭跡があります。現在のFM送信所を中心に3段の平坦な土地が千畳敷廓があった場所だとされています。最も大きな敷地の郭で、武将たちの居住場所だったと言われています。
本丸千畳敷郭から堀切を経て山頂を巻くようにして、本丸高櫓郭と本丸展望台郭の東側斜面の石垣を見てから山頂へ
東側斜面を回り込んで、本丸展望台郭へ。ここには展望台があり地元の方々の憩いの場になっています。
展望台郭の南側上に高櫓郭があります。
楠公寺は、飯盛城の馬場があった場所と言われています。楠木正行をはじめ「四條畷の戦い」の戦死者を弔うために開山したそうで、昭和25年(1950年)に飯盛山妙法寺改め楠公寺としたということです。また、その名付け親は、池田隼人大臣(故)とあります。
楠公寺の西側斜面には、八大龍王の本堂があります。八大龍王は、天龍八部衆に所属する竜族の八王で、法華経に登場し、仏法を守護するとされています。この山域でも八大龍王を祀っている場所は多くあります。


南端の虎口から山頂部を経て、北端である二ノ丸史蹟碑郭に向かう途中にも多くの石垣が残されています。


飯盛城で亡くなった三好長慶ですが、その死を隠すためにこの二ノ丸御体塚郭に一時埋葬されていたと言われています。


