気まぐれに奈良を歩く
奈良公園、春日原始林、若草山、柳生街道など市街地に隣接にもかかわらず、自然環境が保護され、また歴史的にも興味をそそられる史跡などが多く残されています。数年前から紅葉時期に春日原始林と若草山周辺を歩いていますが、今回は少し時期が早かったようです。時間がたっぷりある時に、一度は柳生街道を歩きたいと思っているのですが、今回も峠の茶屋までしか行けませんでした。
今回も近鉄奈良駅から歩き初め、興福寺、浮見堂、春日神社を経て、柳生街道の一部となる滝坂の道へ向かいました。

近鉄奈良駅から近い興福寺は、南都七大寺の1つとして、中臣鎌足(藤原鎌足)の夫人の鏡大王によって建てられた山背国・山階陶原(やましろのくに・やましなすえはら)の「山階寺」を起源とし、その後は藤原氏の氏寺として年月を重ねてきたとされています。詳細は、興福寺の公式ホームページを参照して下さい。

浮見堂、春日神社などを横目に見ながら滝坂の道(柳生街道)へ向かいましたが、紅葉には少し時期が早かったようです。後一週間ほどすれば、燃えるような紅葉風景を見ることができると思います。

奈良市市街地からスタートした場合、柳生街道の前半にあたるのが滝坂の道です。石畳が敷き詰められた風情豊かなコースです。石畳は、柳生家が将軍家の剣道師範となり大名となった頃に街道の行き来を良くしようと改修工事が行われた名残だと考えられています。
滝坂の道には山岳仏教の信仰の対象となっていた石仏がたくさん残されており、今も昔も柳生街道を行きかう人々を静かに見守っています。凛と澄んだ空気を感じ、川のせせらぎや木々のざわめきを聞きながら歩むことができるこの道は、いつ訪れても気持ちを清めてくれます。(「奈良市観光協会のHP」より)
【寝仏】
巨石の裏側に仏さなの姿が描かれている「寝仏」。風化によってその姿は見えにくくなっていますが、室町時代頃に彫られた大日如来だと言われています。落石によって、上部から落ちてきたものだと思われます。彫られているのは道からは裏側になります。
【夕日観音、滝坂三体地蔵菩薩磨崖仏、滝坂地蔵菩薩磨崖仏】
南北朝時代に作られたものと考えられている三体地蔵は、三体全てのお地蔵さまが右手に錫杖、左手に宝珠を有する姿です。夕日観音は、弥勒信仰の盛んだった鎌倉時代の弥勒磨崖仏で、夕日に染まると美しく浮かんで見えます。滝坂地蔵菩薩磨崖仏は、高い崖面に二重円光背を彫りくぼめ、右手に長い錫杖、左手に大きな宝珠を持つ地蔵菩薩を厚肉彫りしたものです。
【朝日観音】
朝日観音は、中央に高さ2メートルを超える弥勒如来磨崖仏、左右にそれぞれ少し小さめの地蔵磨崖仏が彫られた形となっています。造立された時期は弥勒如来が鎌倉時代の文永2年(1265年)、地蔵磨崖仏は向かって左側のものは弥勒如来と同じ時期、また右側の地蔵菩薩は左側の地蔵菩薩とは異なり錫杖を持っておらず、後世の室町時代初頭の作とされています。「夕日観音」と同一の作者によるものと考えられています。

【首切地蔵】
首と胴体部分が2つに割れ、分離されてしまっている「首切地蔵」は、約1.8mの地蔵菩薩で、「朝日観音」や「夕日観音」などと同様に鎌倉時代の作と考えられています。また、剣豪「荒木又右衛門」がこのお地蔵さまで「試し斬り」を行ったという伝説が残されています。

【春日山石窟仏(かすがやませっくつぶつ)】
春日山山中石切峠近くにある磨崖仏で国の史跡に指定されています。通称、「穴仏」とも言われています。露出する凝灰岩の岩壁に仏像を刻んで彩色したもので相接する東西の2窟から構成されています。西窟には久寿2年(1155年)および保元2年(1157年)の造立銘が刻まれていることから、平安時代末期(12世紀中期)の作品とみられます。


昔、寺院用の石材が切り出されたと伝えられる石切峠の峠道を少し下がったところに、かつて柳生街道を往来した人々が必ずここで一服したといわれる、昔風の峠茶屋があります。鴨居には、武芸者が酒代がわりに置いていったという槍や鉄砲が立てかけてあり、また、神道無念流の極意書や鉄扇なども伝えられているそうです。この日は、営業していませんでした。不定休のようです。
柳生街道の峠茶屋まで行った後、春日山原始林の歩道を歩きながら若草山へ向かいました。
若草山はご存じの通り、なだらかな山腹が芝に覆われており、奈良を代表する景観スポットです。山頂には古くから鶯塚古墳(前方後円墳)があり、「鶯山」とも呼ばれます。また、菅笠のような形の山が三つ重なって見えることから「三笠山」とも呼ばれ、それぞれのピークを一重、二重、三重(山頂)と称しています。山頂から見る奈良の夜景は、新日本三大夜景のひとつに認定されています。

奈良公園の紅葉もやはり少し時期が早く、色づき初めでした。紅葉スポットのひとつ「水谷茶屋」もまだ緑が濃かったですね。





