河内飯盛山/学校道コース
◎河内飯盛山
飯盛山(いいもりやま)は、大阪府大東市と四條畷市にまたがる北部生駒山地の山です。大阪府山岳連盟が2002年に発刊した「大阪50山(おおさか50せん)」では、『河内飯盛山』と表記されています。標高は314.3mで山頂部には飯盛城の曲輪跡や石垣跡が今も多く残っています。また、山頂部には南北朝時代の四條畷の戦いで戦死した楠木正行の銅像が建っており、戦国時代の三好長慶の居城としても有名です。河内飯盛山の詳細な情報に関しては、『河内飯盛山周辺登山道』をご覧ください。
◎学校道コース
大東市と四條畷市が発行している『飯盛山登山コースガイドマップ』にも掲載されている学校道コースは、河内飯盛山を登る道というよりは、歴史的な背景を辿りながらハイキングする道です。その大半は、山道ではなく舗装された道路で、危険な個所はありません。道中には、専應寺、臍の王神社本宮、堂山古墳群、寶塔神社、野崎不動尊、龍光寺などの神社仏閣、史跡があります。


旧東高野街道から少し山側に入ったところに「専應寺」があります。浄土真宗本願寺派の阿弥陀如来を本尊とする寺院で江戸時代中期の建築様式をもつ本堂・聖徳太子像を安置する太子堂・鐘楼・山門・庫裏(くり)があります。また、大阪城の石垣を河内飯盛山で切り出していた丹後の京極氏との関わりもあり、京極氏が寄贈した手水鉢も残されています。

専應寺を後にして少し登ると山側に「臍の王神社本宮」の鳥居が木々に埋もれて見えています。子供の頃、野崎の小学校、中学校に隣町から通っていましたが、一度この神社を訪れた記憶があります。臍の緒を祀り、安産・家内安全・夫婦和合・子孫繁栄を祈願する神社ということですが、現在は整備もされずかなり荒れていました。


南天不動、易研迷悟堂、古代史先心堂、瀧ふ動、大東亜戦没日韓看護婦慰霊之碑などの看板や石碑がある場所ですが、何かの宗教的な行事が行われているのでしょうか? 設置されている意図や目的はわかりませんが、歴史的な史跡というより、民族色の強い施設かもしれません。

寶塔神社は、野村グループ(野村證券)の創始者である野村徳七や松井伊助といった大物相場師たちが密かに参拝したといわれています。大物の相場師たちが行詰ったときに詣で心を静めた場所とされ、相場にかかわる人たちのパワースポットとなっているそうです。
祭神は市杵島姫命(いつくしまひめのみこと)で、10月に宮座の儀式御神燈が灯され、祝詞・玉串・御神楽等が行われるようです。拝殿の左手奥には、民話「とめやん」ゆかりの高吉大明神の碑があります。また、寶塔神社の下には、野崎寶頭山不動明王(野崎不動尊)があり湧き水が流れていて、不動明王が祭られています。


堂山古墳群は飯盛山地の西方の尾根に築造された8基からなる古墳群です。この地域は古くから「堂山」と呼ばれ、この古墳群の名称の由来となっています。また、この地には「金の鶏がこの山に埋まっていて正月の朝に鳴く」という伝承が残されています。









四條畷市南野の龍尾寺でご紹介した龍伝説に纏わるお寺のひとつがここ龍光寺です。龍尾寺はその名が示す通り、三つに裂かれた内尻尾が落ちていた場所とされていますが、ここ龍光寺は頭が落ちていたと言われていて、別名「龍頭寺」とも言われています。現在は、住職がいない無住のお寺です。曹洞宗のお寺ですが、何故か真言宗の弘法大師石造座像も設置されています。














